外れた楔




「おかえりなさい」

文若と共に彼の執務室に入れば、そこで仕事をしていた花の言葉が二人を迎える。
顔色一つ変えず、その言葉を受ける文若。

…おかえりなさい、か・・

「おかえりなさいっていいなあ」

素直に、気持ちを言葉に出した。
まるで、花が自分を待っていてくれているかのように、
此処を、自分の住む場所だと決めてくれたように。
いなくならずに、いつまでもこうして迎えてくれたらどんなにいいだろう。

こんな言葉一つで、俺がどれだけ振り回されているか、君は知らない。
過去に戻ったことで、君が一瞬の隙に消えてしまうかもしれない。
その恐怖に怯えているなんて、きっと、考えもしていないだろう――

彼女のことだけでなく、考えることは山のようにある。
それでも、思考と思考の隙を埋めてしまうのは、君の事。
涼州を攻める。そのことをもっと考えなければいけないのに…

そんな思いを抱えたまま、涼州への同行を頼んだ。
もちろん、軍師としての采配も期待して。
けれど、他にも理由がある。

ふと、彼女の姿が見当たらない。
それだけで、いなくなってしまったのではないか。
帰ったのだろうか?
黒いもやに心が沈んでしまう、あの時間を、不安を、感じたくなかった。
遠征に行くなら、傍においておくのは、自分にとって絶対必要なことだった。

「馬、欲しくない?」

軽い口調に、甘い響きを乗せて。
君が望むなら…そんな風に花ちゃんに語りかけて。
微かに染まる頬。
君も、少しは俺と同じ気持ちでいてくれるのだろうか。

君は素直だから、気持ちが出る。
まだ、帰る時ではないんだろうと思う。
苦しい思慕を傍らに、暴走しないように理性と欲望に楔を打ちこんで。
大事に、したい。その気持ちを優先に…そう思っていたんだよ、なのに―――



「いつかは帰らなくちゃいけなかったのかも」

鶴の恩返し。
それにちょっと今の状況を重ねてみた。
期待した言葉は、返ってはこなかった。

好きだと、ほんの少し前に言ってくれたのに・・
確かにその言葉は、軽く感じられて、それでも君が自主的に言ってくれた好意。
君の言葉で浮いた心は、君の言葉で暗い、見えない底に沈む。

話している俺は、ちゃんと、君が怯えないような表情を作れているだろうか。

帰らなければいい。
ここに来た本の制約でもあるのだろうか。
君がここにいたい、そう思っても、帰らなければいけない制約。
そんなものがあるから・・・?

花はここにいたい、そう思ってくれているよね?
君は、軽口でも、俺を好きだと言った。なのに…

「誰が決めたのかな、そんな決まり」
「…鶴、自身でしょうか」

咄嗟に声が出なくなる。
君は、此処にいようと思えばいられる。けれど…戻ることを自分で決めているの?
残らないと、そう俺に告げようと…?

「わかってて言っているなら残酷だよね」

君を気遣うような優しい声は出ない。
笑顔も作れない。
残酷だよ、君は、本当に残酷で…

困惑したような顔を浮かべる花に、その気持ちを隠すようにまた笑顔を作る。

出ていけないようにするよ

会話に出た言葉は…俺の望み。
そうしたくて、たまらないのに。
こんな風に思い悩むこともなく、傍にいられたら…腕の檻にずっと閉じ込めてしまえばいい。

心が揺らぐ。

頭の中がグラグラする。

・・・・・・・・・・・・・・・・


「…孟徳・・・孟徳!」
「ん?元譲か…どうした?」
「どうかしたはこちらの台詞だ。・・・ひどい顔だぞ」

何があったのか、憔悴しきったような孟徳の表情。
――否、理由はわかっている。花のことだろう…

そんな元譲の気持ちを知ってか知らずか、孟徳は自嘲めいた笑を浮かべた。

「なあ、元譲・・・自分のものにならないものは、どうしたら自分のものになる?」
「・・・・・・・俺に聞くな」

元譲の言葉は届いているのか、いないのか、孟徳は虚空を見つめて、低い声で呟く。

「もう、限界なんだ・・・して後悔しないより、俺はして後悔したい」
「・・・何の話だ」
「わかっているだろう?元譲。・・・このまま花ちゃんが元の世界に戻ってしまうのを…見ているだけなんて無理なんだ」
「…花が、戻ると言ったのか?」

その言葉に、何かを思い出したように顔を歪める。
痛々しい表情に、丞相の面影はない。

「あの子は…決めているよ。元の世界に戻る、と決めてる」
「・・・・・・孟徳」
「どうしたら、此処にいてもらえる?優しくしても・・・甘やかしても…彼女をあらゆるものから守ろうとしても!彼女の気持ちは変わらない」
「孟徳、落ち着け・・「それなら・・・」

瞳には光がない。
暗い淵に沈んでしまった瞳は・・・花の羽をむしり取る選択を導き出している。

「愛して、愛して・・・俺の傍にいなければいけないように・・・「孟徳!」

これ以上は・・・と元譲が口を挟んだ時、焦げくさい臭いが鼻を突く。
どこからか、パチパチと何か燃える音が響く。

・・・・夜襲?

元譲が外に出ようとした瞬間、見張りの兵が慌ただしく駆けて来た。
告げる言葉は、花の居住処にまでおよぶ火事――

「花ちゃんの…?」
「はいっですが・・軍師殿はもう避難されていてご無事ですが、お部屋の荷物を気にされて戻ろうとなされて…」

命よりも、気にかける荷物、それは…本だ――
あの、本さえなければ…
心に浮き出た言葉は孟徳にとって浅はかな、けれど、何よりも甘い誘惑のような言葉だった。
キンッと頭の中で何かが外れたような音が響く――

「わかった、行く――」
「・・・・・孟徳・・・」

自分の傍を駆け抜けて行った孟徳は、暗い瞳を湛えたままだった。
元譲はその背を見送ることしかできなかった。


「お願いです、離してください、孟徳さん!」
「離さない」

離す筈がない
火は勢い衰えていない
あんな本の為に・・・君を行かせる筈がない――

「本が――!」

悲鳴交じりの声。
帰られなくなるかもしれない、君の世界との大事な媒介。
それを失くしそうな君の、本音のこもった叫び。
胸が痛い――

「俺にとっては君の方が大事だから。離さない」

その言葉に、もう一生離さないと、心の中で言葉を足す。
君が失ったもの全てを俺一人で満たすと誓うよ――






END





初めての孟花小説がこんな暗いものですみません。
花も孟徳好きだけど、この頃はもう盲目的にそれを信じられていないと思うし。
何より帰ろうと思っている気持ちは孟徳には漏れていたと思うので。
そこらへんで余裕ない孟徳さんを・・・と思いまして。

ここまで読んで頂きありがとうございました!