かりん






日が傾きだして、風も少し冷えてきたころ。
鍛錬して汗ばむ体に、その風が心地よくて、斎藤はしばし、縁側に座って汗が引くのを待っていた。
ぼうっとして何も考えずに座り、時間が緩やかに過ぎていくこの一時は気に入っていた。

しかし、今日はいつもと違う。
何も考えずにいようとしても、いつの間にか頭に浮かんでくるのは千鶴。

『斎藤さんの笑顔もっといっぱい見られますように』

この間、二人で話していた時にそう言って、頬を染めた千鶴の顔ばかり浮かんで、気がつけば頬が微かに熱を持っている。
どうして、そんなに彼女のことを考えてしまうのだろう…今までこんなことはなかったのに。
自分の思考回路が理解できなくて、千鶴のことばかり考えてしまう自分に戸惑いを感じながら時間を過ごしていると、ふと、微かに甘い匂いが鼻をかすめる。

?何のにおいだ?

周囲を見渡しても花など見当たらないこの場所で、微かにでもにおう甘い匂いを不思議に思っていると、

「あっ斎藤さん、休憩中ですか?」

いきなり建物の蔭から千鶴がひょこっと顔を出した。
先ほどまでずっと考えていた相手が急に現れたから斎藤も動揺も隠せなくて、昂ぶる気持ちを抑えるようにゆっくり息を吐いてから

「ああ、どうした?そんな場所で」

いつもどおりに話しかけると、千鶴は少しばつの悪そうな顔をして、

「あの、夕餉まですることがなくなってしまったのでちょっと散策に・・・」
「散策?」
「はい。あっでも屯所は出てないですよ!!」

慌てて付け加える千鶴の様子がかわいらしくて、つい笑みを浮かべながら

「わかっている。」

返事をすると、千鶴はちょっと安心したように斎藤の方へ向かってくる。
その時、先ほど感じていた甘い匂いが強くなって・・・

「・・・雪村は、何か香でもつけているのか?」
「あっ!わ、わかります!?」
「ああ、甘いにおいがする」
「本当ですか?よかった」

嬉しそうな千鶴を見ながら斎藤は少し複雑な気持ちになる。
こんなに喜んでいる千鶴に言うのは酷な気がするけど、男装をして屯所にいるのだから、香などつけないにこしたことはない。
というか、つけてはならない。と言ったほうが正しいかもしれない。

そんなことを横で喜んでいる千鶴に言うのがなぜか躇われて、困ったように千鶴を見ていると、そんな斎藤の様子に千鶴は気づいた。

「どうかしました?あっにおいきついですか?」
「いや、甘くていい香りだと思う。だが・・・香は・・・・」

何やら言いにくそうに眉をよせて考え込んでいる斎藤に、ようやく言いたいことに気がついた千鶴は

「あっこれ、香じゃないんです」
「?」
「屯所内でそんなのつけたらだめってわかってますよ、これは・・・金木犀のにおいですよ」
「金木犀?」
「はい!そこの建物の陰の奥の方にひと株だけ咲いてるんです」
「そうだったのか・・・」
「はい。花の移り香ならいいかなって思って・・・・だ、だめですか?」
「・・・いや」

千鶴とて年頃の女の子なのだ。そういうことに本当はもっと気にかけたいのだろう。
なのに、そんなことは口に出さず、花の移り香で楽しもうとしてるところが、とてもいじらしくて、かわいい。
千鶴といると、何気ないことで心が温かくなるのが心地いい。

傍から先ほど微かに香ったより強く芳る甘いにおいに酔いそうなのか、それとも・・・

「この邸内にそんな場所があったのだな」
「はい!私も香りにつられて発見したんですけど」
「・・・俺は今まで一度も気がつかなかったな」
「金木犀は雨風ですぐに散ってしまうから・・・それに皆さんはお忙しいですし」

そうだろうか、こうしてぼうっとしていることもあるけど、全く気がつかなかった。
庭を散策しながらふと香りに気がついて、金木犀の方へ惹きつけられるように歩いて行く千鶴を想像して、つい笑いがこぼれてしまう。

「?斎藤さん?」
「あ、ああ、すまない。・・・何でもない」
「??そういえば、斎藤さんは日向のにおいがしますよね!」
「・・・日向?」

また突拍子もないことを言い出す千鶴に目を丸くして聞き返すと

「はい!こうしてよく日向ぼっこしてるからかな」
「日向のにおいとは、どんなにおいだ」
「え?ええ〜うまく説明はできないけど、ぽかぽかした・・・」
「・・・・・俺は、俺はそんな優しい香りなどしない」
「・・・斎藤さん?」
「人を斬ることが、刀を振るうことが俺の生き様だ。血のにおいに染まっているだろう」
「・・・・・・・・・」

人を斬ることをいとわない。血のにおいが自分にまとわりつこうと一向にかまわない。
だけど、そんな自分が近くにいることで、今傍にいる甘い香りの少女までもを巻き込みそうで。それは嫌だと、そうはしたくない。と強く願う自分に気がついた。
そう思うと傍にいるのがいけないような気がして…すくっと立ち上がると

「じゃあ俺は・・・」

戻ると言おうとした瞬間、千鶴はその声をさえぎるように

「斎藤さん、まだお時間ありますか?」

先ほどの会話などまるでなかったように、まっさらの笑顔でそう言われて

「あ、ああ」

と困惑しながら答えると

「じゃあ、私に残りのお時間いただけますか?行きましょう!」

斎藤の返事を待たずに、着物の端を掴まれて歩き出す千鶴の後を、斎藤は仕方なく追った。




連れていかれたのは金木犀の花の前。
わずかながらも花を咲かせているその周囲は、甘い香りに包まれていて。

「しばらくここでお話しましょう?」
「ここで?」
「はい、私みたいにお花の香り移りますよ」
「・・・雪村」
「斎藤さんは、自分の信念に従って行動しているのでしょう?なら、そんなにおいに引け目を感じないでください」

じっと斎藤の目を見つめて、優しく微笑みながら

「そんなことで、私の傍から離れようとしないでください。そっちの方が私嫌ですよ?」

自分が去ろうとしていた理由を察していたように、優しく諭してくれて。

「私は、日向のにおいがするって思うけど、斎藤さんがわからないなら、わかるような香りつけちゃいましょう!」

それから何かに気がついたように赤くなって、恥ずかしそうに俯いてから、千鶴が小声でぽそっとつぶやいた言葉は、

「あの、でも・・・私とお揃いの金木犀になるけど・・・いい、ですか?」

千鶴の気持が嬉しくて。
嫌なはずがない、嬉しい、とそう伝えられたらいいのに、言葉が口をついて出ない。
胸の動悸が治まらなくて、顔はきっと見ていられないくらい弛んでしまっているのではないだろうか。
そんな顔を見られたくなくて、千鶴に背を向けたのだけど、その態度を嫌なのだと誤解されたくなかったから、
言の葉を紡げない今の斎藤の精一杯の態度を、


そっと千鶴の手を握った。




8へ続く