『キミがいる世界』




9




円がレインに連絡を取る前、撫子は円の元を訪れていた。
珍しく外出することもなく、研究室にいるところを運良く捕まえることが出来たのだ。
撫子が顔を見せるなり、円はその目をさらに細めて皮肉まじりに言葉をかけてくれた。

「あなたは特別だから仕方ありませんが、この部屋は本来なら勝手に立ち入ることは禁じられているんですよ。
出来れば用もないのに興味本位でウロウロしないで欲しいですね」
「用はあったわ、円に。ちょっと頼みたいことがあるの」
「……ぼくに、あなたが?言っておきますけど、あなたがここを抜け出したいとか、そういう事にはぼくは手を貸せませんよ」

貸す気がない訳ではなく、貸せないというところに円の事情が汲み取れるというものだった。
そんな円の事情を知りながらも、この程度なら……と顔をあげる。

「レインのカエルとお話したいのよ」
「……あなた、何なんですか。ぼくの忙しい時間を割いてまで頼みたいことがそれですか」
「ふざけてなんかいないわ、真面目に……頼んでいるのよ」

レインのことを知りたいと思っても、彼が何をしたいのかを理解したくても。
本人に聞いても答える筈がない。
レインは境界線がはっきりしている人だと思う。
自分が引いた線まではあけっぴろげに、へだたりなく付き合ってくれる。

だから、最初から何を考えているかわからなくても好意的で、親切で。
でもその線を越えようとする人を、決して自分の領域には入れまいとするような――

鷹斗と同じように、決して短くはない時間傍にいる円も、そこまでレインの事情に精通しているようには思えない。
本人以外に尋ねるのならば、鷹斗が一番知っているような気はしたが……それは出来ないことだった。
どうしてそんな事を知りたいのか、という根本にある自分の気持ちがある以上、鷹斗には頼れない。

それに、レインはそういう自身の身辺をうまく隠して、この世界に自分を馴染ませているような気がした。
彼はそういう隠蔽をその笑顔で難なくこなしている気がした。

全ては自分の憶測でしかないけれど。
それでも聞くなら、知りたいなら……レインが常時身につけているカエルしか思い浮かばなかった。

人口頭脳を搭載しているらしいあのカエルは、確かに言っていたのだ。
前に撫子がレインの寝言を、「レイチェル」という名を聞いてしまった時に……

『オレは――よかったと思ってるぜ?』

あの日、部屋に入れるようにしてくれたのもカエルだった。
寝言を聞いてしまい、レインの触れてほしくないところに踏み込んでしまったのではないか、という自分を責める気持ちをあの言葉は楽にしてくれた。
レインのすることに、表立って反対はしないものの、あのカエルはレインをこのまま先に進ませたくない、どうにかしたいと思っている――

そう、今なら思える――

撫子の真剣な眼差しに、円が思案気に指を口に添える。

「……あのカエルなら、あなたが『話相手が欲しい』と適当な理由を話せば、すぐに貸してくれると思うんですけどね」
「そう言えば、きっとレインは他の……話し相手になるようなのを作るか、自分が相手になるとか、適当に理由をつけてあのカエルを私には渡してくれないわ」

最初、撫子も円のようにレインに直接頼もうと思っていた。
けれど、今朝……レインは撫子の声に振り向かずに部屋を出たのだ。
あれは、自分の引いた境界線を越えようとした撫子を暗黙に拒んでいたのだと思う。
その自分には、きっと今は渡してはくれない――

「はぁ……わかりました。それくらいの頼みなら聞けないこともないですよ」
「……っ本当?」
「ええ。丁度ぼくの方でもレイン先輩に少し用があったので、ついでにあなたの方も解決すればいいでしょう。今、呼びます」

言うやいなや、すぐに通信機を取り出してレインへと通信を繋げる。
会話の内容は円のものしか聞こえないが、撫子はその呼び出し理由に多少不安になる。

……ちょっと、理由が大袈裟ではないかしら

至って平穏な空気の流れる研究室に、円の言うような問題など全くありそうにないのだが。
撫子の不安をよそに、円はそんな心配など無駄だと思わせるような余裕の笑みを湛えた。

「これで今からレイン先輩が来ますから、あなた適当に隠れててください」
「え?隠れる……?」
「あなたの言う通りだとすれば、素直に渡してはくれないでしょうから。カエルを手放した時にぼくがあなたに渡します」
「そんな事して、大丈夫なの?円が怒られるんじゃ……」
「……そんな暇、きっとないと思いますよ」

少し口調の変わった返事に、撫子が思わずじっと窺うように見つめると円はすぐに見下ろす顔を歪ませる。

「何度も言わせないでください。隠れろって言いましたよね、ああ、ぼくのコートの中にでも隠れるつもりですか?」
「……っ違うわ!もう、相変わらずな態度ね!」
「あなたはようやく、あなたらしくなりましたよ」

ムッと表情を作りながらも、撫子は奥へと向かいその姿を隠す。
円は撫子の姿が完全に見えなくなると、手元にある通信機を静かに繋げる。

「あーキング?ビショップですが、ルークを呼びました。一応報告しておきます。……来るんですか、はあ、キングの仰せの通りに」

回線を切った後、円は面倒そうに頭をかきながら撫子が隠れた方向へと視線を向けた。

CLOCKZEROという組織に組み込まれて、キングの協力者となって、人口転生を成功させて。
キング・ルーク・ビショップという歯車はそれでも狂うことなく、この壊れた世界を回し続けてきた。
それが今、どことなく歪みだしたのを感じながら―――









研究室の奥にある小部屋に、身を隠しながら。
レインはもう来たのだろうか、円はあんな嘘を吐いて大丈夫だったのだろうか、と思いながら。
声が全く聞こえない扉の向こうを思い、撫子は恨めしげにその扉に耳をあてていた。
すると静かにそのドアが瞬時に開いて、撫子はそのまま身体を崩しそうになった。

「……あなたね、ここは研究室。機密が漏れないように防音加工されていることもわからないんですか」
「わかっているけど、そうは思ってても諦めきれないことだってあるでしょう」
「盗み聞きの行為はどうかと思いますが、同意できるところもあります」

にっと口元に笑を浮かべながら円が撫子の手にカエルを手渡す。

「……あっ」
「なんだなんだ、このオレご指名かよ。回りくどいことしねーで正面から聞きやがれ!」
「だから、今から聞くのよ……円、レインは大丈夫なの?」

カエルがいなくなったことにも気付かないくらい、もしかして重大な事態だったのだろうか――と顔を曇らせる撫子に円はツラツラと告げた。

「大丈夫ですよ。今まで散々サボッていた仕事をまとめて渡しただけです。いつも仕事を増やされてばかりだったので」
「……なんだ、そういうこと――」
「……けっどーだか」

小さく放ったカエルの悪態に円は一瞬口をつぐませるも、「ですから」と言葉を続ける。

「仕事の邪魔になるので、あなた部屋に戻っておいてくれませんか。その方がカエルとゆっくりおしゃべりも出来ますよね」
「私はいいけど、大丈夫なの?」
「はい、何とでも理由はつけるので。あなたがクイーンになってこの世界を一緒に統治するというのなら、研究室に喜んで招いてあげますよ」
「遠慮しておくわ」

慌ててくるっと背中を向けて、部屋の奥にあるエレベーターに乗った撫子に、円はふぅっと溜息を吐いてレインの作業する部屋に戻っていった。
真面目に画面と向き合うレインの目は忙しく右往左往していろんな事項をチェックしている。
その様子を後ろから眺めながら、円は邪魔にならないタイミングで声をかけた。

「どう思います?」
「……どーって、すごいですねーとしか……言葉がないですよー」

レインの態度は変わらない。
けれどその称賛の言葉には皮肉を込めた笑顔を添えていた。

「不正なアクセスの痕跡を消去した犯人の……痕跡を再度表示させて犯人探し、ですかー」
「今は特にセキュリティに問題もありません。ただ、問題なのはその犯人の手腕です。ぼくも敵わない気がしますよ、見事です」
「……そーですか?ボクには、その痕跡を再度復元させているキングに称賛したんですけどね」

パチっと画面をクリックすればするほど、画面がどんどん目に焼き付く。
レベルの違いなんて端からわかっていたことではあるが、突きつけられると称賛と共に苦い思いが湧く。

「キングが対応したこと、まだぼくは言っていないんですけどね」
「……わかりますよーだって、ボクにだって不可能ですからねーさすがですねー」
「まあ、そうですね。ぼくもキングに指摘されるまで全く気付きませんでした。でも今はキングの手腕よりもこの犯人に目を向けるべきでは?」

円が画面のアクセスの痕跡を指し示す。
その横顔は至って普段と変わりない。

「これだけ出しても、まだ犯人はわかっていません。いえ、その人だと言う証拠が出てきません」
「……まるで、目星はつけているかのような言い方ですね、ビショップ」
「ぼくは、こういうことを可能に出来る人を二人しか知りませんので」
「それはそれはー……光栄なことですねーキング?」

コツッと乾いた靴音が響く背後に、レインは振り向かずに声をかける。

「そうだね」

返ってきた言葉に、レインはようやく椅子ごと回転して顔を合わせる。
変わらない笑顔を湛えて、鷹斗がしっかりとレインを捉えていた。










10へ続く