『キミがいる世界』




7




ようやく一人で出歩くことを許されて、初めて外に出た日。
夕闇の中、私を迎えに来た鷹斗に背中から抱きしめられて、二人で帰ったあの日。

彼の想いを、昔の私では到底理解できなかっただろう想いを……うまく説明できないのにわかってしまって。
どう受け止めればいいのだろう……と考えてしまう。

受け止める――

その言葉にもう一人、顔が浮かぶ。

いつもと変わりない笑顔で私の帰りを出迎えてくれた。
だけどその笑顔は、どこか欠けた笑顔で。

あなたが、とても寂しそうに見えたのよ、レイン――

そう言えばきっと、いつもの笑顔を浮かべて軽く受け流すのだろうけど。
過去の夕焼けの中、ずっと片思いしてる人がいると告げた……先生であった鷹斗のあの笑顔と、とても似ていた。

どうしたら世界を変えられるかだなんて、そんな簡単に考えられることじゃない。
この世界を変えた鷹斗を変えれば、少しは変わるのかもしれない。
だから――と振り切ろうとするのに……

そう考える頭に、あなたのあの笑顔がずっと浮かぶの。

どうして、そんな顔を見せたのよ――



ピピピ……と無機質な音が部屋に響く。
絵本の小鳥のさえずりで起きるような生活からかけ離れたこの世界での、幾度めの目覚めだろうか。

まだ朝食が運ばれるまでには時間があった。
ぼんやりと冷たい窓に手をあてて外を眺めていると、心の希望までもが冷たく侵食されそうになる。
朝の清涼感を感じたかった。
ぐるぐるになりそうな頭を一新させたかった。

「・・・・・・・温室・・・」

この世界で、花の溢れる空間はあの一室だけ。
無意識に身体を翻し、部屋を出た。
エレベータ付近まで足を進めたところで、くいと腕を掴まれて、身体がぐらっと揺れる。

「こんな朝早くからお出かけですかー?撫子くん」

『おかえりなさい、撫子くん』

あの日、鷹斗と二人並んで帰った日。
私だけに向けられた笑顔と言葉が、瞬時に脳裏に浮かんだ。
何でもない挨拶の言葉だったのに、レインの欠けた笑顔にそうではないように思えた。
胸が軋んだあの感覚を思い出して、ゆっくりと振り向く。

「それもいいと思いますけど、朝食はちゃんと食べた方がいいと思いますよー?」

……いつもの、レインだわ――

「ええ、そうね。でも外に行くわけではないの。少し…空気を換えたくて…」
「……ここはどこも陰気な空気でいっぱいですからねー」
「そうでしょう?だから…鷹斗の温室にちょっと失礼させてもらおうかと思って…」

レインは口元だけ笑を浮かべて、なるほどーと頷く。
けれど、そのまま温室へは向かえなかった。
掴まれたままだったのを忘れるくらい、軽く添えられたレインの手一指一指に力が込められて、掴まれている状態なのを強く認識させられた。

「撫子くん…ボクもキミに話したいことがあるんですよー」
「……今?」
「別に今じゃなくても構いませんよー……今がダメなら後で、部屋に失礼させてもらうだけですからー」
「……」

私と変わらない同じくらいの背。
腕の長さもそんなに変わらない。
掴まれた腕のせいで縮まった距離で、レインのぎこちない笑顔がよく見える――

「……ううん、聞くわ。レインの話ならきっと有心会とのことなんでしょう?」
「はいーそうしてくれると助かりますー」

ニコニコと、それじゃあ行きましょうかーと元いた部屋に戻ろうとして。
掴まれていた腕がようやく自由になる。
レインの後ろを付いて歩こうとして、立ち止まった彼に慌てて歩みを止める。

「……どうかしたの?何か忘れ物でもしたなら、私先に行――」

腕じゃなくて、今度は手を掴まれて。
いや、手を繋いで廊下を戻る。

「……ちょ、ちょっとレイン――っ!!」
「すみませんーでもキミは後ろで見えないところで、迷子にでもなりそうな気がしたんですよー」
「子供じゃないんだし、迷子になんかならないわ…っ」
「おやぁ?精神の成長もちゃんと認めているんですねー良好良好」

さっきとはまるで違った笑顔。
最初ここに来た頃とも違う、人間味のある暖かい笑顔な気がする――
そんな違いがわかるのも成長によるものだとしたら、少し感謝したい気にもなる。

この世界を変えることを、レインは望んではいない――

レインにはこの世界が心地いい――

……本当に、そうなの?

今、隣から見える笑顔に、彼の言葉が彼の心情に伴っていない気がして。



少し、レインのことを知ったような気でいたからかもしれない。

彼の言葉に、彼の想いにどれだけの感情が込められていたのか。


今までにも繋がるような疑問符はあったのに、考えようともしなかった私は――




「有心会との手引き、うまくいきましたよー」
「……っそうなの!?」

部屋に戻った途端、レインは当然の結果のように言ったのだが、撫子は十分驚いたようだった。

「はいー明後日、ボクと撫子くんで彼らとの待ち合わせ場所まで行くことになります」
「……待ち合わせ、明後日?もうそんなことまで……」
「キミも早いほうがいいですよねー?」

撫子の返事を待たずに、この話はこれで終わりとばかりにレインが切り上げようとする。

「そういうことなので、夜迎えに行きますねー」
「夜って……二人だけなの?警備の人とかは……」

相手は有心会。レインと自分だけでは何かあった時にどうするというのか――
自分から手引きをして欲しいと言っていたのに、どこか踏み切れないのは……目の前にあるレインの背中だろうか。
先ほどとは打って変わって、突き放そうとされているように感じた。

「その点は心配いりませんよーボクとキミには識別コードがない。それにCLOCKZEROの管理区域内です。彼らの方が危険なくらいですからー」
「鷹斗には、何て言うつもりなの?」
「……鷹斗くんがそんなに気になりますか?」
「気になるに決まっているわ!そんなの…私が持ちかけたことだけど鷹斗にバレたらレイン、あなたにだって……」
「ボクは大丈夫ですよー」

ようやく振り向いたレインは胡散臭い笑顔を浮かべて、ひどく真面目な声色で告げた。

「彼はボクに同情しているんです。あるいは同類、とでも思っているんでしょうねーボクを疑うようなことは……絶対ない――」


そのことを好都合としているような、憎く思っているようなどっちとも取れるレインの、素の声。

シ、ン――と部屋の中に静かな音が響く。

触れたら壊れそうな、そんな空気を壊したのはレインだった。
ははっと可笑しそうに声を出して笑う。

「ボクは真面目な社員ですからねー?」
「……」
キミが目を覚まさなくなってから10年――ずっと共に研究して傍にいたんです。そんなに特別なことじゃあないですよー」
「嘘」

レインの言葉をからかいとも取らず、怒ることもせず、動揺もせず、凛とした撫子の声がレインの口を塞ぐ。

「レインは……嘘吐きね」



薄暗い部屋の中、10年前の事件の発端となった彼の心の闇をどこか見透かすように、

撫子の頬から涙が伝い落ちた